发信人: ck19780(非典型刺客)
整理人: ck19780(2003-05-28 01:00:56), 站内信件
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飛来峰と霊隠寺のガイド
皆様、この壁には「咫尺西天」と書いてあります。西天は極楽世界と言われています。「咫尺」は一歩の差の意味です。これはここから西天までとても近いというなのです。それでは、つぎはまず飛来峰のほうへ移動していただきます。
飛来峰とは文字通りの意味で飛んできた峰です。飛来峰についてはいろいろな説があります。今から千六百余年前に、インドから一人のお坊様「慧理」がここに来ました。彼はこの山を見て、おどろいた口振りで「インドの霊鷲山の一角である須弥山にそっくりなのですね。須弥山はいつごろここに飛んできたのでしょうか」と何回も言われて、飛来峰と名付けられたそうです。また、彼はここを選んで霊隠寺を開きました。
地質学上、この峰は周囲の砂岩とは異なる石灰岩からなっています。全くまわりの山々とは別種の感じがするのです。飛来峰の高さは海抜二0九メ―トルで木が茂っており、いろいろな動物の形をしている岩石がいたる所にあります。谷間には清流がさらさら流れています。そこの山の岩壁と洞窟の中五代から宋代までの石刻像があわせて338体彫られています。・次に一つ一つゆっくりごらんになってください。・
先ず最も南側にある一番大きな洞窟――青林洞にまいりましょう。ご覧ください。この入口が虎の口の形をしていることから、虎の洞窟ともいわれています。入口の左側の壁には勢至、観音、弥陀の三尊の小さな仏像が彫られています。これは西歴951年、わが国に五代後周の時代のものです。お国の平安時代の中期にあたります、この一組の石仏は飛来峰の中でもっとも古い物です。右の壁には西歴1022年に中国の宋代、お国の平安時代の中期に彫り刻まれた盧舎那仏一組があります。盧舎那仏が蓮華台の中に座っており左右に分けられたそれぞれ獅子と象にのっている文殊仏と普賢をおよび四天王と供養人もあわせて15体です。
この青林洞の隣は玉乳洞です。洞窟の天井に岩石は乳白色ですから、玉乳洞と呼ばれています。昔、洞窟の中にたくさんの蝙蝠が生息していた、また天井の形が蝙蝠に似ているところから、蝙蝠洞も呼ばれています。この洞窟に卜代に彫られた釈迦三尊て五十余りの羅漢像があります。はい、次、理公の塔へ移動しましょう。
このから理公の塔について説明させていただきますが、この塔は六角形の七重の石塔で高さは約九メ・トルです。明代の万歴十八年、つまり千五百九十年に霊隠寺を開山したインドの慧理和尚を記念するために建立されたものです。その上に塔銘や金鋼経や仏像などが彫られています。塔の下には彼の仏舎利と遺品がおさめてあると伝えられています。次に竜弘洞へご案内致しましょう。
皆様、この洞窟は竜弘洞と言います。入口の側に中国古典小説である「西遊記」に出た人物がほってあります。玄奘和尚、孫悟空などは生き生きとしているでしょう。そして入口の左側にはお国の有名な書道家である日下鳴鶴が九十年前に書いた字――大日本明治二十四年六月、日下鳴鶴はここに来遊にきたりが残されています。洞窟の中にある金箔が張ってある仏像は観音様で、宋代のものだそうです。それから又、この洞窟の出口の右側の岩壁には日本語で書かれた石刻があります。
またすぐそばに射旭洞があります。これが有名な「一線天」です。仏教をあつく信仰している人
はこの一線天から玉観音が見えると伝えられています。
飛来峰にある338体の石刻像の中で一番有名な仏像は今皆様の向にあります。これは宋代に彫り込まれたものです。布袋様と羅漢仏が一組になっている石仏です。布袋様は967年に彫刻されたもので、満面笑みを浮かべて、お腹を丸出したままです。これは飛来峰のシンボルで、これを見ると飛来峰だと分かります。
皆様、いま目の前にあるのは霊隠寺の天王殿です。霊隠寺は東晋時代の326年。お国の邪馬台国にあたってその時創建されたもので、もう1600年あまりの歴史を持っております。臨済宗の禅寺です。開山祖師はインドからきたお坊様慧理様でした。十世紀に五代の呉越国王銭泓が仏教を信じたおかげで、この寺は全盛期を迎えたしとがありました。記載によると当時は九楼、十八閣、七十二殿堂、千三百あまりの部屋があり、僧侶は三千人に達したことがあったそうです。いまは大きな建物はただ大雄宝殿と天王殿しか残っておらず、僧侶は三十六名しかいないそうです。天王殿の屋根には額が二枚掛けてあります。上の額は雲林禅寺です。それは清時代の康烈皇帝の親筆です。康烈皇帝は朝早くお寺の後にある左高峰に登ったことがありました。山のいただきを極めてから、ほっとして下を見下ろすと霊隠寺はまるで雲と林に沈んでいるような気がしました。あまりにも美し景色に霊を得て、「雲林禅寺」と揮毫しました。下の額には「霊鷲飛来」と書いてありますが、これは霊鷲山はインドから飛んできたという意味で山門の向こうにある飛来峰のことを言っているのです。
沢は入口からお寺に入ってください。ここで御注意申し上げます、仏殿の中には「摂影禁止」という看板がありますから、恐縮ですが、摂影はご遠慮ください。お寺に構内では景色と建物の表は写真をとってよろしいです。
それでは、天王殿をご覧んになってください。この天王殿は千九百三十二年に再建されたものです。中に入ると正面に太鼓腹を見せて、にこにこ笑っている弥勒菩薩が祭られています。この仏像は二百年前に作られた銅像です。弥勒仏は布袋様の化身ですが、いつもお腹と胸をはだけて、笑顔でお客様を迎えていますが、この菩薩はお釈迦様の外務大臣と称されています。
両側に立っている四天王像も一九三二年に再び作られたものです。高さ8メ・トルです。その時まず木を組み合わせ、張り子のようた型を作ってその上に土をつめて、仏像に型ををつくりました。乾いてから、その上に更に生漆を何回も塗りつけたりしたのです。最後に出来上がった切に色をつけました。四天王は東西南北世界に守護神です。東は持国天で、西は広目天です。多聞天は北方世界の守護神で、増長天は南方世界を守っています。それから、弥勒仏の後の壁には厳しい表情で伏魔の杵を手にした韋陀天があります。この仏像は今から七百年も前の南宋時代に一本の樟の木を材料して彫刻されたものです。仏像には金箔が施されています。南宋時代の末期に霊隠寺に多くの仏像は火事で焼きはらわれてしまいましたが、この韋陀天像だけが走りが足いからさいわいに火事から免れました。
いま真正面に見えるのは大雄宝殿です。つまり本堂です。見えるのは大雄宝殿です。つまり本堂です。高さは33・6メートルで、1910年に改筑されたものです。この本堂を支えている露台の左右には八角形九重の経幢が立っています。それらは北宋時代の960年に呉越国王である錢俶が永明大師のために建立したものです。高さは約20メートルです。そして本堂にいただきにある鏡は「迴光鏡」と言われています。鏡は小さけれども、向こうの飛来峰の景色を全部入れられるそうです。仏教の意味では、この鏡で自己自身を映して誤りを反省するということです。本堂の上にはほかにまた二つの額があります。上にあるのは「妙庄厳域」です。妙庄は仏陀のよびなで、厳域はたいへん庄厳たところとい
う意味です。下の額は有名な書道家である沙孟海氏が書いた「大雄宝殿」です。そして、この広びろとした古木の聳えている構内に右側にあるのは斎堂で、そこで精髄料理が食べられます。左側は宝物室です。寺宝大の宝物が陳列してある所です。写真をとりたい方はどうぞ、撮ってから大雄宝殿に入ってください。
大雄宝殿にあるお釋迦様は1956年に故周恩来総理の指導のもとで、浙江省美術学院の彫刻家と大工達に作られたものです。見本は唐代の仏像でした。生き生きとしていますね。仏像に使われた材料は二十四本の楠の木です。ただし頭右の手は楠の木ではありません。乾いた漆でできています。そして、お釋迦様の体全体は金箔がはりつけられています。つけた金箔の量が44キロだそうです。蓮の台を入れて仏像の高さは19・6メートル、これは中国の寺の中で、一番大きい座っている仏像です。奈良の大仏よりやや小さいです。東大寺の大仏の高さは16・2メートル、しかし、日本一の大仏は福井県の越前大仏の高さは17メートルです。もともとは、これより小さい仏像がありましたが、白蟻いで腐りました。
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