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主题:日本历史(31)
发信人: killjqk(<>)
整理人: ccu13650(2001-11-29 23:19:51), 站内信件
平和の訪れ 
民主化の道――  日本を占領した連合軍は,ポツダム宣言にもとづいて日 
本の軍隊をなくし,政治や経済の面でもたくさんの改革を要求して,日本の 
自分と平和をおびやかすものをなくしていきました。 
    まず新憲法がつくられて,1947年(昭和22年)5月3日から行なわれま 
した。この憲法は日本が永久にどこの国とも戦争をしないことを決めていま 
す。また選挙権は,女子にも認められて,男女同権が実現しました。 
    次に日本の経済が少数のものに操られないように,財閥がなくされ 
,農地改革が行なわれて大地主の土地が小作農民に分けられました。また, 
働く人の生活を守るために労働組合や農民組合が全国に創られました。こう 
して日本は平和と自由を尊ぶ民主主義の国にうまれかわっていきました。 
あかるい生活――  文化の面でも,教育に六.三.三.四制がしかれ個性 
を重くみる教育が行なわれました。また,物理学者の湯川秀樹がはじめてノ 
ーベル賞を受け,敗戦で打ちひしがれていた日本人に自信と誇りをもたせま 
した。こうして敗戦後,不自由な生活をしていた国民も連合国のたすけと国 
民の  力で,だんだんあかるい生活を取り戻しました。 
独立の完成――  二回にわたる大戦争で平和のたっとさを知った各国は国 
際連合をつくって平和な世界を築き上ようとしています。また日本も1951年 
(昭和26年)には国民の待ち焦がれていた講和会議がアメリカのサンフランシ 
スコで開かれ,翌年から日本はふたたび独立国として世界の国々のなか間に 
入ることができるようになりました。 
    しかし,日本がふたたび船出した世界の海は決して穏やかではあり 
ません。ソ連とアメリカは,事々に争って厳しく対立していたので,日本と 
ソ連との間にも,長く講和ができなかったのです。1956年(昭和31年)に総理 
大臣の鳩山一郎がモスクワを訪れてようやくソ連との間に交わりを取り戻し 
ました。続いて国際連合に加入することも許され1957年(昭和32年)には,国 
際連合の重要な機関である安全保障理事会の非常任理事会も選ばれました。 
これは世界の平和と安全に関わる大切な問題を取りあげるところです。その 
理事国の一つに選ばれたことは,大変な名誉です。しかしそれだけに世界の 
国々の信頼をうらぎらないように,しっかりとした,よい働きをしなければ 
なりません。 
科学の発達――  広島や長崎に落とされた原子爆弾は、それらの町をこわ 
し,何十万という人の命を奪いました。この恐ろしい原子力を平和な産業に 
利用する研究も行なわれ,原子力の発電所や汽船もつくられ,世界の産業を 
大きくかえようとしています。 
宇宙の開発――  1957年(昭和32年)10月,ソ連の人工衛星の打ち上げには 
じまり,ついに1969年(昭和44年)アメリカは,アポロ11号に人間を載せ月面 
着陸に成功され、月に人類初めての足あとを記しました。続いてアポロ16号 
は,飛行士は11号以上長時間の月面か行動に成功されました。 
    1976年(昭和51年)7月,アメリカは火星に探査機を軟着陸させまし 
た。やがては,宇宙の開発が人々の生活や考えを大きくかえていくでしょう 
。 
産業の復興――  敗戦後に日本の経済は,国民の努力によって1950年(昭 
和25年)ごろには,戦前の水準にまで復興しました,そしてその後も産業の 
発展は続きましたが、中でも工業の発展は著しく,特に1960年(昭和35年) 
ごろから石油化学工業を中心にめざましい発展をとげ,現在では,日本の 
国民総生産は,世界の中でも上位をしめる工業生産国となりました。 
    また,これに伴って輸出も増え,貿易も発展するとともに国民の 
生活も向上し,消費生活も変化してきました。 
公害――  しかし,産業が発展するとともに,国土の開発による自然環 
境の破壊や農村人口の過疎過密の問題,いろいろな産業から発生する公害 
源がわれわれの生活に中に現れ,いろいろな環境を汚して人々の暮らしを 
苦しめるため,近年、大きな社会問題となっています。このため,国民の 
いろいろな運動が起こり,公害防止や自然環境の保護などがさけばれてい 
ます。 
領土の返還と日中国交回復――  1968年(昭和43年)6月それまでアメリカ 
に管理されていた小笠原諸島が返還され,1972年(昭和47年)5月には国民が 
長い間待ち望んでいた沖縄が日本に復帰しました。また,1972年(昭和42年) 
9月には,日本と中華人民共和国との国交を正常化するための共同声明が発 
表され,日本と中華人民共和国との国交が回復されました。 
交通の発達――  産業の発達や技術の進歩によって,新しい鉄道や道路 
などが建設されるようになりました。中でも,東京へ大阪を約三時間で結 
ぶ東海道新幹線は,1959年(昭和34年)に着工されましたが,わずか五年後 
の1964年(昭和39年)10月に完成し,世界の注目をあびました。現在では 
,山陽新幹線として九州の博多まで開通し,国民の足として多くの人の利 
用されています。 
    また,高速自動車道路も名神.東名.中央中国.東北などの道路 
が開通し,産業や人々の生活に大きな影響をあたえています。このほか飛 
行機の進歩や空港の装備により,日本の大きな都市に大型のジュット機が 
飛ぶようになり,ますます便利になっています。 
世界の中の日本――  いろいろな催しを通して国際親善を深めようと, 
1964年(昭和39年)10月,東京オリンピック,1972年(昭和47年)2月,さぼ 
ろオリンピックの二つのオリンピック大会が開かれ,スポーツを通じて世 
界の人々と親善を深めました。また,1970年(昭和45年)には3月から9月 
なで大阪で万国博覧会が開かれ,1975年(昭和50年)には沖縄で国際海洋博 
覧会が開かれて,世界の国々の産業や文化が紹介されました。 
    このほかにも、世界各国の代表者や学者などが集まって開かれる 
政治や経済,学術などの国際会議もたびたび日本で開かれるようになりま 
した。 
    これからも日本には国際社会の中で重要な地位をきずくことでし 
ょう。 

  選自日本新教育研究会書くの<<日本歴史>> 


和平的讯号
民主的道路--  日本被联合国军队占领,根据波茨坦宣言日本不能拥有军队,在政治和经济方面要进行改革,使日本不能威胁自由和和平.首先建立新宪法,从1947年(昭和22年)5月3日开始实施.这部宪法规定日本永远不能向其它国家发动战争,另外承认女子有选举权,实现了男女拥有相同权利.接着,为了日本的经济不被少数人控制,将财阀解散,实行农地改革,将大地主的农田分给小作农民.另外,为了保障工人的生活,全国成立了劳动工会和农民工会.这样,一个尊重和平和自由,实行民主主义的新日本再生了.
光明的生活--  在文化方面,实施了六.三.三.四注重个性的教育制度.另外,物理学家汤川秀树获得了诺贝尔奖,使在战败被摧毁的日本人重获自信和荣誉.战败后,生活的不自由和需要联合国援助的人民,在不断努力下重新取回光明的生活.
完成独立--  在经历了二次世界大战,各国都知道和平的崇高,为了维护和平成立了联合国.1951年(昭和26年)在美国召开了日本盼望以久的议和会议,在第二年再一次作为独立国家重回世界大家庭中来.但是,为了稳定局势禁止日本的船队出海.因为苏联和美国事事都严重对立,所以日本和苏联之间,长期不能实现议和.在1956年(昭和31年)总理大臣九岛 山 一 郎访问了莫斯科,决定和苏联重新进行交往,1957年(昭和32年)日本被准许重新加入联合国,在联合国的重要机构--安全保障理事会担任非常任理事国,这是一个关系世界和平和安全的重要问题讨论场合,做为理事国之一,是非常光荣的.不过正因为如此,为了不辜负世界各国的信任,为了维护世界的和平,必须要不断努力才行.
发达的科学--  原子弹在广岛和长崎引爆,造成了城市损坏几十万人命的伤亡.开发这种惊人的原子力,然后在和平的产业来利用和研究,建造原子发电厂和汽船,大大推动了世界产业的发展.
开发宇宙--  1957年(昭和32年)10日,苏联成功发射了人造卫星,接着1969年(昭和44年)美国的阿波罗11号成功登陆月球,人类的脚印开始踏足月球.紧接着阿波罗16号的宇航员成功在月球比11号停留的时间更长.1976年(昭和51年)美国发射了前往火星的探测器并着陆.不用说,宇宙的开发能改变人类的生活吧.
产业的复兴--  战败后日本的经济,随着人民的努力,在1950年(昭和25年)复兴到战前的水平.然后再继续发展其它产业,其中以工业的发展最显著,特别是从1960年(昭和35年)开始,以石油化学工业为中心取得了令人瞩目的发展,到现在为止,日本的国民生产总值排在世界的前几位成为了工业生产国.另外与此同时,出口增加了,贸易发展的同时人民的生活也提高了,消费生活也起了变化.
公害--  但是,产业发展的同时,随着国土的开发,出现了破坏自然环境和农村都市人口过疏过密的问题,各种产业引发的公害威胁着我们的生活,各种环境的变坏危害了人们的生活,近年变成了社会的大问题.因此,人民发起了各种各样的运动,呼吁防止公害和保护自然环境等.
归还领土和中日复交--  1968年(昭和43年)6月,由美国托管的小笠原诸岛被归还.1972年(昭和47年)5月,国民长时间盼望的冲绳回归日本.另外,1972年(昭和42年)9月,日本和中华人民共和国为了实现邦交正常化,发表了共同声明,日本和中华人民共和国复交.
发达的交通--  随着产业的发展和技术的进步,建成了新的铁路和公路.其中东京到大阪约用三小时结束行程的东海道新干线,于1959年(昭和34年)峻工,短短五年后的1964年(昭和39年)10月,受到世界关注,现在从九州到博多的山阳新干线成功开通了,被作为人民的代步工具.另外,高速公路也有名神.东名.中央.中国.东北等开通,给产业和人们生活起了很大的影响.此外飞机的进步和机场的完备,日本的大城市都可以乘坐大型飞机,交通变得越来方便.
世界中的日本--  通过各种活动加深和国际的亲善.1964年(昭和39年)10月召开了东京奥林匹克大会和1972年(昭和47年)2月的札幌奥林匹克二次大会,通过运动加深了和世界人民的亲善.另外,在1970年(昭和45年),举办了从3月开始到9月结束的万国博览会,1975年(昭和50年)在冲绳举办了国际海洋博览会,介绍世界各国的产业和文化.除此之外,世界各国的代表和学者等,也经常齐集日本召开关于政治.经济.学术等国际会议.从此之后可以说日本也在国际社会占据重要的地位吧.

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文章内容选自日本新教育研究会编写的<<日本历史>>一书


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