发信人: killjqk(<>)
整理人: ccu13650(2001-11-29 23:19:51), 站内信件
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徳川家康と江戸幕府
関が原の合戦―― 信長の後をついで,秀吉は国内の統一をみごとに
やりとげましたが、朝鮮まで力を伸ばそうとして,十六世紀の終わりに
ころ、朝鮮に二回も兵を送りました。しかし、秀吉はその結果を見ない
うちに死んでしまいました。
秀吉が死んでから、徳川家康の勢力が強くなり,全国の大名た
ちは、秀吉の子の秀頼をもり立てていこうとする石田三成たちと,家康
につこうとするものと二つに分かれ,関が原で戦いました。
この戦いは天下分け目の戦いと言われ,この戦いで勝った家康
の力はさらに大きくなり,1615年ついに大阪城を攻め落として秀頼
の軍をほろぼしてしまいました。
幕府と大名―― 家康は1603年に征夷大将軍になり,江戸に幕府
を開きました。
幕府には老中,若年寄などの役をおいて政治をしました。これで戦国の
世の中を統一して、平和な国にしょうとした信長や秀吉の理想が実を結
んだのです。
幕府は大名の力が強くなって,世の中が乱れるのを防ぐために
大名の領地をきめなおしたり,大名たちに一年おきに江戸ですむように
させました。これを参勤交代と言います.また,天皇や公家神社や寺に
たいしても,厳しいきまりをつくって、取り締まりました.そして幕府
は旗本と言う,将軍自身の家来がたくさんいて守るようにしくまれてい
ました。
厳しい身分―― このような政治のしくみでは,武士が一番大きな力
を持ちことが必要になります.そこで,人々の身分も士,農、工,商の
四つに分け,武士を民衆の上にたたせることにしました。百姓は人々の
生活の本である農業をするために武士の次にされ、商人は金をもうける
事しかしないから、一番下にされました。そしてこの身分は生れながら
にして決まっていることにしました.また、この身分によって衣,食,
住にもそれぞれ制限が設けられました.農民は、再び検地され,厳しい
税の取り立てをうけ,また,道路や川の修理に出され,生活は大変苦し
いものでした。
武士の間では,主人は家来を養い,その代わり,家来は主人の
命令に絶対に従わなければなりませんでした。こうした主従の間柄を封
建的な間柄と呼んでいます。それは、武士の間ばかりでなく,他の身分
の人々の間にも同じかたちがありました。こうした封建的な間柄や封建
的な世のなかのしくみは鎌倉幕府のできたころから。江戸幕府の開かれ
るまでにしだいにつくられたのです。
鎖国―― 東アジアやヨーロッパの国々との貿易は、室町幕府のころ
からはじまってしだいに盛んになりました。ことに秀吉は貿易を許す朱
印状を商人に与えて通商貿易をしょうれいしましたが,家康もその利益
に目をつけて御朱印船をどしどし海外に出しました。そのためにシャム
で活躍した山田長政のように外国へ渡った日本人も多く,東南アジアの
国々では日本人町さえできました。
家康は外国との貿易はのぞみましたが,封建制度をくずすおそ
れのあるキリスト教は厳しくとりしまっていました。しかし、ザビエル
が伝えたキリスト教は信者が増え、ことに貿易が盛んになって外国船が
自由に出入りするようになると.ますます増えてきました.そこで幕府
はいっそう厳しくとりしまり、キリストやマリアの絵をふませて信者を
見つけ出し,きかない者は死刑にして信者をなくそうとしましたので、
九州の島原の信者たちは幕府の命令に背いて幕府の軍と戦いました。こ
れを島原の乱といいます。
しかし,外国船がたくさん入ってきては、十分にとりしまるこ
とができません。そこで、三代将軍徳川家光は,1639年に海外との
交通を止めてしまう鎖国令出して,日本の国を海外から閉ざしてしまい
ワした。
そのために日本人は海外に渡ることが出来なくなり,貿易も,
キリスト教と関係のないオランダと中国の船だけが長崎の出島で貿易す
ることをゆるされました。したがって,外国の文化の入ってくる窓は,
長崎だけになりました。
ところが、このころヨーロッパでは,社会しくみが変わり,人
々が新しい考えのもとに,国をどんどん発展させていました。こうした
ときに,外国との交わりをたちきったことは,封建制度を保って国内の
平和を持ち続けることにはなりましたが,世界の進運から取り残される
結果になりました。
译文:
德川家康和江户幕府
关之原(现歧阜县)会战-- 在信长之后,秀吉统一了全国,随后想把势力扩展
到朝鲜.16世纪未曾2次派兵入侵朝鲜,但是,秀吉并没见到结果就死去了.
丰臣秀吉死后,德川家康的势力日益壮大.拥立秀吉的儿子秀赖执政的
石田三成等为挽回其势力,联合了诸大名举兵进攻德川家康,在关之原(现歧
阜县)爆发了激战.日本历史称这场战役为"决一天下雌雄之战",结果丰臣
氏大败,德川家康取得决定性胜利,于1615年攻占大阪城,消灭了秀赖的军队,
从此确立了统治根基.
幕府和大名-- 1603年,家康成为征夷大将军,在江户建立幕府.德川幕府设
立了"老中""若年寄"等高官职称,总理政务.至此,信长和秀吉要平定战乱纷
纷的国家,建立稳定社会的的愿望终于达成.
德川幕府为了防止诸候大名判乱,重新划分领地,并规定各诸候大名的
家属留住江户,大名每隔一年回江户工作,叫做交替参政.还有,天皇和朝庭
要建造神社和寺院,也都严格限制起来.然后,幕府的旗本(将军的直属武士)
就由将军身边的许多家臣来出任.
身份的限制-- 象这种政治结构,武士必然拥有最大的势力.因此,人们的身
份从武士.农民.工人和商人分为四等.武士在众人之上,地位显著不同.百姓
们原本的生活是从事农业,排在武士之后,商人因只是赚钱,排在最后.而这
种身份是生下来就确定了,另外,根据这些身份对衣.食.住也有各种各样的
限制.
农民经重新检地过的农田,被征非常苛刻的税收,还要参与道路的修整,
因此生活非常贫苦.武士中,因有很多被有钱人眷养,成为了家臣,奴仆的关系.
这些家臣,奴仆对主人的命令是绝对服从的.就这样,封建的主仆关系就建立
起来了.另外,不但是武士,其他身份的人们也有同样类似的关系.这样封建的
人际关系和封建的社会关系,从镰仓幕府开始,一直到江户幕府的建立慢慢
开始形成开来的.
锁国-- 东亚和欧洲各国的贸易,从室町幕府开始渐渐繁荣兴旺起来.秀吉
时期,商人们拿着幕府颁发的朱印状进行贸易,并被鼓励同外界通商贸易.家
康看到贸易带来的利益,也经常派遣贸易船出海.因此,像在泰国十分活跃的
商人山田长政等日本人有很多,他们在东南亚各国也建起了日本人居住的城镇.
家康虽然期望和外国进行贸易,但又担心封建制度被冲激而崩溃,因此对
外来的基督教采取严格的控制.但是,信教的人不断增加,随着贸易的来往频繁,
外国船只的自由进出而使越来越多入教.因此,幕府更加严格控制,发现藏有基
督和玛莉亚的画像,又不听禁令者处以死刑.因为出现这样的事,在九州的岛原
的信众违抗幕府这个命令,而和幕府军队进行了战斗,史称岛原之乱.
但是,外国船只的大量进出,难以严格执行这禁令.因此,第三代将军德川
家光,在1639年发出了锁国令,封锁了和海外的交通,关闭了日本和外国来往的
关口.
因为锁国闭关,日本人不能前往海外,贸易就只有在和基督教没关系的国家
荷兰和中国之间进行,在长崎的出岛进行贸易.长崎因此也成为日本仅有的引进
外国文化的窗口了.不过这个时候的欧洲,社会的结构有了很大转变,人们在新
思潮的带领下,国家发展蒸蒸日上.而切断和外国来往,闭关锁国的日本,虽然国
内维持了封建制度,社会比较稳定,但外面的世界却在不断进步飞速发展中.
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